千間台名倉整骨院

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江戸の骨つぎ名倉 古い接骨の歴史

江戸の骨つぎ名倉現在の千住名倉医院の入り口

今から、約40年ほど前は、「ほねつぎ」整骨、接骨の呼び名は”名倉”とほぼ同意語として通用している時代がありました。

この”名倉”という名称が、私の住んでいる埼玉県と密接なつながりがあることは知っている人は、意外に少ないのではないかと思います。

かくいう私も”名倉”の流れをくむひとりです。全国いたるところの都市へいっても”名倉”の名前が目に付きます。それらはみな本家、名倉の直流か、傍系かのいずれかに属していると思われます。名倉家は、秩父郡小鹿野の出身で、関東武士の亀鑑とうたわれた畠山二郎重忠の末裔で、現在にいたるまでの系譜が残っています。

私の父が接骨を生涯の仕事にしようと志し、千住の名倉に入門したのは昭和初期で約85年ほどを経過した昔のことです。

この間に接骨医療も著しく進歩し、それと同時に、世間の期待や評価も一段と高くなってきました。
当時は、接骨、正骨、整骨、ほねつぎ及び「名倉」などいろいろな名称で呼ばれていましたが、現在の正規の名称は「柔道整復師」となっています。

接骨の歴史は大変古いもので、「養老律令(養老二年)(718年)にはすでに折傷の治療にあたる」と出ており、「奈良朝に按摩技師等の制度があった」と古文書に残っています。
更に、平安時代の古書にも「円融天皇の御代に接骨博士数名あり、各自特有の手法を持って整骨し……」とこの辺りで接骨という名称が記載されています。

次の時代には真保流、その二、三の流派ができましたが、これは呪術な要素が多かったようです。また、キリスト教の伝来により、南蛮流といった西洋外科学も導入され、一段と進歩しました。中国明朝の末に拳法の大家であった陳元贇(チンゲンピン)という人が長崎に来住、江戸麻布飯倉に仮寓し、拳法とともに救急法として外傷に対する治療法も教授したということは彼の著書「拳法秘書」に載っており、知ることができます。 その後、今から約220年ほど前、江戸の名倉家、大阪の年梅家、長崎の吉原元陳等、接骨を業とするものが出現し、これを日本接骨の三大源流と思われます。

外科史によれば、接骨科を初めて専門としたのは長崎の吉原元陳(寛政の頃)1790年と記されているが、名倉宗家に伝わる古文書には次のような記録が残っています。
「故名倉直賢」
「・・・・・四代の孫を弥次兵衛直賢と云い素朴と号し、性剛直武術を好み、殊に剣術に長じ、之を教授する傍ら武備心流整骨伝に依り其の技術を研究し、又「医」多紀氏に従い薬方を定め明和中、接骨術を創む・・・・・・」と記してあります。

明和中とあるのは1764年から172年までなので、接骨科を始めたのは吉原元陳より直賢のほうが早いことになり、相伝の古文書で外部には出なかったので外科史が誤ったものであろう。

また石見国浜田藩の医師二宮彦可(1754年~1827年)は中国の解剖学、薬物学、西洋系伝来の包帯学も、取り入れて改良を加え、文化5年(1808年)「整骨範」上下2巻を著し、江戸、京都、大阪から刊行し、これは現在でも重要視されています。
中国の人民衛生出版社、台湾の大新書院の双方で原文(漢文)のまま再版されています。また、大阪の高志鳳翼が延享3年(1746年)骨継療治重宝記3巻を刊行し、次に大阪の名務文献(1754年~1819年)が「整骨新書」を著し、その業績により大正8年従五位を追贈されています。

さて、これらの整骨家たちは、その著書だけ残し、家系としては絶えているように思われています。同じ頃、江戸で整骨家として名声をはせた千住名倉家のみは、子孫の連綿として医業を継承しています。

また、昭和27年には厚生年金福祉施設として、整形外科を中心とする総合病院が開設され、その初代院長として著明な整形外科医であった名倉重雄先生を迎えて以来の伝統を引き継いで現在に到ります。

名倉家に残る古文書によると、戦国時代、二十三世行家が北条早雲の摩下にあり、初めて名倉姓を名乗り、「・・・・・・行家より名倉を氏とす」とあります。

永禄十三年(1570年)6月名倉姓六代名倉下野守重則の時、武田信玄に攻められ落成、一子重治は逃れ、当時岩槻に蟄(ちっ)居し、成人の後(越谷市大泊村)開発し居住、元和二年(1616年)に死去しました。

この名倉家が、埼玉県を離れ東京千住へ移ったのは、系譜三十二世名倉姓十代弥次衛重直で、これが千住名倉家初代となった。四代将軍家綱か5代将軍綱吉のころです。
この重直曽孫に当たる名倉直賢が初めて接骨を業としたもので、おそらく日本最古の接骨創業であろうと思われます。

明治、大正、昭和のころは全国各地から患者が多く来院し、近県からは戸板または籠で夜を徹して通って来たもので、接骨業としては誠に名声を博したもので、現在も多数来院しています。